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ケニア・アフリカ人同盟(KAU)が発言力を持つようになると、植民地行政当局は逆に要求に対して譲歩を見せなくなる。その間、キクユ、マサイ、ルオなど、様々な民族で政治的な組織が結成され始めた。中にはヨーロッパ人や植民地制度に協力するアフリカ人を殺す、という過激な秘密組織もあった。マウマウ(Mau Mau)は当時の政治的な組織の一つで1952年に主にキクユによって結成され、その目的は白人移住者をケニアから追い出すというものだった。
最初の攻撃は1953年、白人が経営する農場の牛を全部殺すというもので、これがマウマウの乱の始まりである。その後、植民地行政当局は非常事態宣言を出し、部族民を有刺鉄線と地雷装置のある堀に囲まれた『保護村(protected villages)』に収容して、さらに夜間外出を禁止した。約20,000人のキクユが雇われ、イギリス軍による反乱阻止と警察の『保護村』警備を助ける役割を任せられる。1956年にマウマウ敗北と共に反乱は終了したが、この反乱によって13,500人を越えるアフリカ人と、100人ほどのヨーロッパ人が死亡した。また、この他約20,000人のキクユが拘留キャンプに収容されて、その多くが病気などで収容中に死亡している。
マウマウの乱が開始してから1ヶ月後に、ケニヤッタはマウマウのリーダーであるという容疑で逮捕された。今でこそ、ケニヤッタはマウマウのリーダーであるどころか、マウマウ指揮者に対しても何らかの影響を及ぼしていたとは考えづらいとされているが、5ヶ月にも及ぶ裁判の後に有罪判決が出て、ナイロビから離れたツルカナ地方の刑務所で7年間も拘束された。1959年に釈放となったが、その直後ロドワー(Lodwar)で自宅監禁となる。
この反乱により白人移住者がローデシア(Rhodesia:現ジンバブエ)、南アフリカ、オーストラリアに退去するようになった。また白人政治家の間にも、国を白人居住区と黒人居住区に分ける案や民主的に選挙を行いアフリカ人政府に移行する案など、今までとは違う要求が出てくるようにもなった。もちろん後者の案が採択されるべきなのは明らかではあるが、1960年にイギリス政府が打ち出した『1963年12月ケニア独立』の計画が出て、ようやく公認される運びとなる。イギリス政府は新ケニア政府に対して1億米ドルにも及ぶ資金援助を行い、これによりヨーロッパ人の経営する農場を買い取ったり、土地を各民族に返還することが可能になった。
その間ケニア・アフリカ人同盟は、ナイロビを中心とする中央集権国家を目指す派閥と、キクユの独裁を防ぐため連邦制をとるべきであるという派閥の2つに別れた。前者はケニア・アフリカ民族同盟(KANU:Kenya African National Union)、後者はケニア・アフリカ民主同盟(KADU:Kenya African Democratic Union)となり、白人居住者は必然的にKADUを支持するようになった。
ケニヤッタは1961年に自宅監禁を解かれ、ケニア・アフリカ民族同盟の党首に任命される。長年に渡る白人統治があったものの、ケニアッタは白人に対しての恨みは心に抱いておらず、「独立後のケニアには未来がある」として、逆に白人移住者を元気付けるような対応を取った。
白人経営農場のうちいくつかはケニア政府によって買い取られ、それを1区画で15~20人が生活できるような形で区分けされた。これは世界でも有数の出生率の高さを誇るケニアにとって効果のある政策ではあったが、同時に農場の縮小から農産物の減少による財源カットと、住宅建設による生態環境破壊へとつながることになった。政府は残りの白人経営農場については買取を中止することにしたが、以前のように穀物を自給自足できるような体勢に戻すという見込みについては、達成される可能性は薄いものと見られた。
1962年にケニア・アフリカ民族同盟とケニア・アフリカ民主同盟は連立政府を結成したが、1963年の選挙後にケニヤッタ率いるケニア・アフリカ民族同盟が権力を握るようになった。1963年12月にケニア独立を達成し、ケニヤッタはケニア最初の大統領に就任する。ケニヤッタは1978年に死亡するまで政権を担い、アフリカ国家の中で一番の繁栄と安定を築き上げたと言われる。
ケニヤッタ政権の欠点として挙げられるのは、キクユ族中心の政策に偏りすぎたことだ。またケニヤッタの政策にあまりに口うるさく反対した者は、よく『行方不明』になるということもあった。
1964年にケニア・アフリカ民主同盟の自主解散により、ケニアは実質一党支配の国になる。またケニア・アフリカ民主同盟の解散により連邦主義政策も完全に消滅し、政府も当初の二院制から一院制へと移行した。
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