タスマニアへの道標

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製作: 小川 邦久

タスマニアの歴史


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− タスマニアンアボリジニの悲劇 −
 遅くとも35,000年前には原住民のタスマニアンアボリジニが暮らしていたといわれる。 当時は今よりも気温が低く乾燥しており、海面も低かったため、オーストラリア本土ともつながっていた。 住民のほとんどが草原地帯のあるタスマニア西部に暮らしていて、乾燥しきった東側には全く人がいなかった。
 今からおよそ10,000年ほど前、気温の上昇と共に海面も上がり、タスマニアはオーストラリア本土と分断された。 本土のアボリジニはその後ブーメランなどの道具を使って狩りをするなど発展していったが、タスマニアンアボリジニは相変わらず木片や石などを使って狩りをしていた。 1803年にヨーロッパ人の入植が始まったが、その当時には約4000人のアボリジニが生活していたとみられ、狩猟採集の生活は変っていなかった。
  入植したヨーロッパ人はタスマニアの肥沃な大地に次々と農場や牧場を作ったが、これはアボリジニの生活の場を奪い取ることを意味した。 このことに気づいたアボリジニは自分たちの土地を取り戻そうと、牧場の羊を殺害したり、略奪を試みたりもした。 ヨーロッパ人はこれに暴力で対抗した。 アボリジニの子供達は労働力として使われ、女性は乱暴され、また森には鉄の罠が仕掛けられた。
 1828年、当時のアーサー総裁によって、開拓地に入り込むアボリジニをヨーロッパ人兵士が捕らえたり銃殺したりする権利を与える法律が施行された。 捕らえられたアボリジニはブルーニー島のキャンプ地に収容されたが、食糧事情が悪かったことや、ヨーロッパ人の持ち込んだ病気に感染したりしたことから多数の死者が出た。 最終的に、ヨーロッパ人入植が始まった年から35年間で4,000人近くのアボリジニが死んだ。
 1876年に死亡したトルカニニ を最後に純血のタスマニアンアボリジニは絶滅してしまったが、現在でも混血のタスマニアンアボリジニは6,000人以上生活しており、その多くは過去の悲劇についての賠償に関する運動を行なっている。

− タスマニアの発見 −
 タスマニアを訪れた最初のヨーロッパ人はオランダの海洋探検家タスマンだ。 1642年に上陸したタスマンは、ここを当時の東インド会社総督の名前から”Van Diemen’s Land”と名づけた。
 1770年から1790年の間にキャプテンクックを始め多くの航海者がこのタスマニアを訪れた。 しかし、その全員がタスマニアをオーストラリア本土の一部と勘違いしていた。 1792年にD’Entrecasteaux提督がタスマニア南東部を綿密に探索したが、この時に使われた名称が今でも地名や観光名所の名前として残っている。
 1788年にシドニーを中心としたニュー・サウス・ウェールズがイギリスの植民地として宣言されてから、ヨーロッパ人のタスマニア航海も頻繁になってきた。 1798年、フリンダーズ大尉がタスマニアを一周調査し、初めてここが一つの島であることがわかった。 フリンダーズ大尉はこのタスマニア島とオーストラリア本土の海峡を「バス海峡」と名づけた。 その後、このバス海峡はシドニーとインドを結ぶ重要な航路となった。
 1803年に第3代総督のキングは、フランスがタスマニア島に興味を抱いていることを知り、ここがイギリスの領有であると宣言した。 宣言当時はニュー・サウス・ウェールズ州の一部として扱われたが、1825年に分離する。 1856年、議会での投票でこの島が正式に「タスマニア」として呼ばれることが決定された。 これはもちろんタスマンから名前を取ったものである。

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− 流刑の果て −
 オーストラリアが流刑囚の国であることはあまりにも有名だが(全員がそうではないが)、タスマニアはその囚人が更に罪を犯した場合に送られる流刑囚の最果ての地でもあった。
 タスマニア最初の監獄が設立されたのは1821年、タスマニア西部のMacquarie港内にあるSarah島だった。 人々から隔離され、荒れ果てた島内での収容生活は想像を絶する厳しさであったに違いない。
 その後も流刑囚の数は増え続け、1825年にマライア島に、1832年にはポートアーサーに監獄が設立された。 以上の3つの監獄は地形的に脱出が困難であることから建設地が選ばれた。
 1856年に流刑が廃止されるまでの約30年の間に、74,000人の流刑囚がこれらの監獄に収容された。 この受刑者のほとんどが、刑に服した後もタスマニアに残って生活している。

− ゴールドラッシュ −
 1870年、タスマニア北部のタマ川付近で金、北東部ではスズが発見された。 このニュースは世界中に伝わり、多くの人がタスマニアに宝を掘り当てにやってきた。 しかし、富を手に入れたのは最初に掘り当てた一部の人のみで、後からやってきた人たちは取り尽くされてすでになくなってしまった宝を求めて掘りつづけていた。
 1880年に今度は西部のジーアンで銀と鉛が発見された。 この発見によりタスマニア西部には相当量の鉱物があるとわかり、多くの人が再び宝を求めてやってきて、ローズベリー、クイーンズタウンなどの鉱山の町を築いた。 1920年までにクイーンズタウン周辺の山の木々は、精錬所の燃料などとして使われ、すべて倒されてしまった。 雨の多いこの地方では、鉱毒を含んだ有害な水がはげた山肌を流れ、全く木の生えない不毛の地となってしまい、この状況は1960年代まで続いた。

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