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コンドルは飛んでゆく
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製作: 小川 邦久

各地の見どころ


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リマ クスコ マチュピチュ
プーノ アレキパ ナスカ
トルヒーヨ チクラヨ イキトス

移動時間
飛行機 : リマから、クスコまで60分、アレキパまで80分、イキトスまで90分、トルヒーヨまで60分、チクラヨまで60分
バス : ナスカまで7時間、アレキパまで17時間、クスコまで32時間、トルヒーヨまで9時間
鉄道 : クスコ〜アグアスカリエンテス/マチュピチュ3時間半、クスコ〜プーノ10時間、プーノ〜アレキパ11時間
宿泊施設情報
Peru Hotels(英語)
URL: http://www.peru-hotels.com/genlmap.htm



リマ (Lima)
 インカ帝国時代は穏やかな町であったリマだが、16世紀のスペイン統治後は大部分の建造物が壊され、その土台の上にスペイン風の建物が建てられて、町全体の風貌が大きく変わってしまった。1535年にフランシスコ・ピサロがリマに新都市を築いてからしばらくはスペイン植民地の首都として機能して繁栄した。しかし1746年の大地震で建造物はほぼ全壊してしまい、その後数十年をかけて現在の街並みの基礎が出来上がった。バロック調の建造物、広大な道路と広場はこの時に設計されたものだ。19世紀以降は資源の豊富なペルーの主要港として機能しつづけたが、その後数回に渉る経済危機、人口の急増、貧困層の拡大、治安の悪化、スモッグ、テロの横行などさまざまな問題を抱え込んだ。しかしここ数年は政治・経済も安定してきており、警察の強化により治安もかなり改善された。また、ミラフローレス(Miraflores)、バランコ(Barranco)など、リマ郊外の新都市も大きく発展しており、ペルーの首都としてのリマは転換期を迎えつつある。
セントロ (Centro: 旧市街)
 アルマス広場(Plaza de Armas)は、フランシスコ・ピサロが都市を築いた際に、その中心となった場所である。大統領府のそばにあるため警備が厳重で、ピリピリとした緊張感を感じる。そのそばに1555年に20年もの歳月をかけて完成し、その後の大地震により3回修復を行ったカテドラル(Catedral)がある。入り口を入ってすぐ右の部屋に、「ピサロの遺体」とされるミイラが安置されている他、奥の部屋に歴代のインカ皇帝の肖像画が飾られている。サン・フランシスコ教会・修道院(Iglesia y Convento de San Francisco)の地下には、当時の人の腕、足の骨、頭蓋骨が無数に並べられており、初めてペルーを訪れる人は大きなショックを受けるだろう。サン・マルティン広場 の中心に、ペルーの独立に大きく貢献した将軍サン・マルティンの騎馬像が立っており、昼間は人が多く集まる。
ミラフローレス (Miraflores)とサン・イシドロ(San Isidro)
 セントロからコレクティーボ(小型バス)で約30分のところにあり、セントロとは異なり喧騒な雰囲気は全くない。高層ビルが建つなど街並みは新しく、歴史的な観光名所はほとんどないが、食事や買い物をするには便利である。ラルコ・マール(Larco Mar)は海岸沿いにあるショッピングモールで、ファーストフード店、各種ショップ、映画館などが立ち並ぶ。ここから歩いて10分ほどのところに恋人たちの公園(Parque del Amor)があり、昼間は広大な海を見ながらのんびりと過ごすことができる。
リマのその他の見どころ
 リマ全体が見渡せるサンクリストバルの丘(Mirador Cerro San Critobal)、ペルーで取れた金銀財宝と世界の武器を展示した黄金博物館 、ペルー3000年の歴史のありとあらゆる美術品を集めた国立ペルー美術館(Museo de Arte)、チャンカイ文化の土器を集めた天野博物館(Museo Amano)、聖者の眠るサントドミンゴ教会(Iglesia y Convento de Santo Domingo)など。
An Introduction to Lima(英語) - リマの観光情報
URL: http://www.interknowledge.com/peru/lima/index.htm

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クスコ (Cusco)
 1100年にマンコ・カパック(Manco Capac)によって築かれたクスコは、当時はアンデスの小国に過ぎなかった。しかし、1438年に9代目の王、パチャクティ(Pachacuti)がチャンカ族を打ち破ってから、事態は大きく転換した。その後インカ帝国は急激に勢力を伸ばし、現在のコロンビア南部からチリ、アルゼンチンまでを統治する巨大帝国となり、クスコはその首都として中心的役割を果たした。しかし、11代目になりワイナ・カパック とアタワルパ(Atahuallpa)が内戦を起こしてしまい、ワスカルはクスコを、アタワルパはエクアドルのキトをそれぞれ統治するような形で分裂してしまった。1533年にピサロが上陸した後アタワルパは処刑されたが、クスコの人々は当時それを称えたと言う。その後ピサロはマンコ・カパック二世(Manco Capac U)を新しいインカの支配者としての地位を約束するが、マンコは自分が操り人形のような存在でしかないと気づき、インディヘナ150,000人の兵を起てて1536年に反乱を起こす。その際にマンコの軍はクスコの茅葺屋根の家々に火を放ち、町を壊滅状態にしてしまった。マンコの軍は最終的に敗北し、ジャングルの中にビルカバンバ(Vilcabamba)という国家を築くことを企てるが、1572年に最後のインカ王トゥパク・アマル(Tupac Amar)がこのビルカバンバで捕まり、クスコで処刑されてインカ帝国の歴史は幕を下ろした。その後しばらくクスコが政治的、経済的な主導権を握るようなことはなかったが、1780年にトゥパク・アマル二世の反乱があり、この時は白人−インディヘナ間で大規模な暴力的争いが生じた。このトゥパク・アマル二世も一世同様、最期はクスコで処刑された。その後クスコは誰からも忘れ去られた存在のように何も起きなかったのだが、アメリカのハイラム・ビンガムが1911年にマチュピチュ(Machu Picchu)を発見してからは、考古学者、歴史学者が多数訪問するようになり、南アメリカの歴史上の首都として有名になった。
 クスコの中心であるアルマス広場(Plaza de Armas)は、観光客、地元の人々で昼夜を問わず賑わいを見せる。サント・ドミンゴ教会/コリカンチャ(Iglesia de Santo Domingo/Qorikancha)に、剃刀の刃一枚も通さないと言われるインカの石組みがある。クスコ近郊の遺跡めぐりでは、要塞サクサイワマン 、生贄の地ケンコー(Quenko)、赤い要塞プカプカラ(Puka Pukara)、聖なる泉タンボマチャイ(Tambo Machay)は必見。その他、建設に100年を費やしたカテドラル(Catedral)、建造物自体が芸術品の宗教芸術博物館(Museo de Arte Religioso)などが見どころ。
 なお、クスコは標高3300mと高地にあるため、訪れる人の半数近くが頭痛や食欲減退など、軽い高山病にかかる。到着初日は無理をせず、夜も十分に睡眠を取るように心がけたい。
CuscoPeru.com(英語) - 食事、宿泊、地図など各種情報が得られる。
URL: http://www.cuscoperu.com/

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マチュピチュ(Machu Picchu)
 1911年にアメリカのハイラム・ビンガムが発見したマチュピチュだが、生前はインカ最後の都市ビルカバンバと信じて疑わなかった。
 ビルカバンバはスペイン人のペルー支配後、マンコ・カパック二世がジャングルの中に築いた町であったが、1572年にスペイン人に攻撃されて滅びてしまい、その後誰からも忘れられてしまった「失われた都市」であった。
 そのビルカバンバを探すべくビンガムは科学者、歴史学者、考古学者を引き連れてインカ道を歩き、ついにマチュピチュを発見するのだが、マスコミに対しては「ビルカバンバを発見した」と伝え、それが世界中に報道された。その後50年間、誰もビルカバンバの発見に疑いを持たなかったのだが、「ビルカバンバ」は「神聖な平地」を意味し、マチュピチュとはイメージが全く異なること、スペイン人に攻撃されたはずなのにその跡が無いこと、ビルカバンバはインカの反撃を計画するための比較的突貫で築かれた町であるはずなのに、相当時間のかかる建築方式を用いていることなど、矛盾点がいくつかあった。
 そしてついに1964年、ジーン・サボイが本物のビルカバンバと思われる遺跡を発見し、ビンガムの「マチュピチュ=ビルカバンバ」説は覆されてしまった。それではいったい誰が町を築いたのだろう?何故あのような急な山のてっぺんを町にしようと思ったのだろう?住んでいた人々は突然何処へ行ってしまったのだろう?
 「宗教的な首都であった」、「試験的に農業を行った」、「インカ王の休息地であった」などさまざまな説があるが、どれも的確に謎を解けるようなものは無い。
 マチュピチュは結局ビンガムの探し求めていた町ではなかったが、彼の功績は世界中の人々により多くの謎を提供したことにあると言える。

[ Machu Picchu ]
 マチュピチュはクスコからアウトバゴン(Autovagon)で行くのが一般的。インディヘナの農村、アンデス山脈、ウルバンバ川などが見えて、車窓からの景色も良く、スピーカーから流れるフォルクローレも旅情を高めてくれるだろう。到着駅はアグアス・カリエンテス(Aguas Calientes)で、線路沿いにお土産屋、食堂が多数並ぶ。その後シャトルバスで約30分間の道のりで遺跡へ。遺跡内では葬儀の石(La Roca Funeraria)、見張り小屋付近からの風景が、テレビ、ガイドブックなどで最も知られている。その他段々畑(Andenes)、太陽の神殿(Tempo del Sol)、王女の宮殿 コンドルの神殿(Grupo del Condor)など、興味深いものが多数ある。時間のある人はワイナピチュ(Huayna Picchu)に登り、山頂から空中都市マチュピチュを是非見下ろしてほしい。

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プーノ(Puno)
 アンデス地方に伝わる神話によると、インカ族が誕生するはるか昔、創造神ウィラコチャ(Wiraccocha)が闇の中に世界を築き、大地に巨人を住まわせた。しかし、暗闇の中で巨人たちはまともに歩くこともできず、次第に苛立ちを見せるようになり、そして争いにまで発展してしまった。これを見たウィラコチャはひどく憤慨し、巨人たちを岩に変えてしまい、世界中を洪水にしてしまう。その後水は蒸発し、巨人たちの岩は侵食されて、ウィラコチャの感情もだいぶ収まった。そしてウィラコチャは新たなものを創造する。太陽と月と星をティティカカ湖(Lago Titicaca)から導き出し、空の所定の位置に付くよう命じた。最初は月の方が太陽よりも明るかったのだが、不満に感じた太陽は月に灰をかぶせて、永遠に薄暗い光しか出せないようにしてしまう。その後、ティティカカ湖の東にある太陽の島(Isla del Sol)でアヤル兄弟が生を授かった。このうちの長男がマンコ・カパックで、後にクスコに移りインカ帝国の基礎を築き上げたのだ。
 今でこそこの話を真実としてとらえる人はいないだろうが、ともかくティティカカ湖はアンデスの人々にとって、文明を生んだ神聖な地であったのだ。
 プーノの標高は3855mと富士山より高く、観光も慌てずにのんびりとやるのが基本。ティティカカ湖の葦(あし)の浮島、ウロス島(Los Uros)はガイドブック等でも有名。家、船、土産品など、すべてがトトラ(totora)と呼ばれる葦からできている。時間があれば、独特の織物が有名なタキーレ島(Isla Taquile)、インカ前の遺跡があるアマンタニ島 へと足を伸ばしたい。

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アレキパ(Arequipa)
 「アレキパ人」の多くは、アレキパはペルーのほかの地域よりも都会的で、上品であると考えているらしい。この町は植民地時代にスペイン人によって築かれ、その富のなごりが今も一部続いているからかも知れない。ここでは場違いな派手な服装や、見慣れない素振りを見せると地元の人に変な目で見られてしまう。アレキパは「白い町(La Ciudad Blanca)」と呼ばれてる。これは建物の多くが白い火山岩でできていることから来ているのだが、中にはヨーロッパの祖先と絡めて皮肉る人もいるようだ。
 1540年にこの町が築かれてからは、植民地の文化的中心地として美しい教会が次々と建てられ、そして1579年に有名なサンタ・カタリナ修道院(Monasterio de Santa Catalina)が建設された。一時は500人もの修道女が外の世界とは隔離された生活を送っていたが、今では20人程度が小部屋で過ごしている程度だという。中には花壇や噴水などで飾られており、ペルーの美術様式を伝えるアート・ギャラリーもある。
 1970年頃は人口300,000人程であったが、ここ30年で一気に100万人を超えるまで膨れ上がった。この暖かく、仕事もあり、そして穏やかな雰囲気のアレキパに、多くの人々が魅力を感じているのだ。
 アレキパ周辺には雄大な自然を見ることができる場所が多い。温泉の沸くチバイ(Chivay)を経由して、あのグランド・キャニオンよりも深い渓谷、カニョン・デル・コルカ に行くツアーが人気だ。ミラドール(Mirador: 展望台)から見る雄大に飛ぶコンドルの姿は、まさに名曲「コンドルは飛んでゆく 」のイメージとマッチする。標高5821mの火山、ミスティ山(El Misty)、標高6075mのチャチャニ山(Chachani)への登山もチャレンジする人が多い。どちらの山も現地旅行会社で2日間の登頂ツアーがあるが、これは体力的に劣る日本人向きではないかも知れない。

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ナスカ(Nazca)




 有名なナスカの地上絵 は、1000年以上前に鳥、猿、蜘蛛、鯨、台形など、数百の絵や幾何学模様が描かれたものだ。この絵や模様は、砂利をどけて底の白っぽい土が見えるようにしてあるだけのもので、単純な線のようなものから、大きいものでは全長300mに及ぶ絵もある。地上からは全く絵や形には見えないが、飛行機など上空から見ると無数の絵を見ることができる。ナスカ地方では一年間で合わせて数分程度の雨しか降らない砂漠気候で、足跡さえも1000年残ると言われるぐらい大地の表面は変化が無く、そのため絵や模様が消えることなくそのままの形で残っていた。しかしながら、パンアメリカン・ハイウェイの建設によりトカゲの絵が分断されたり、最近の異常気象により地上絵がだんだんと薄くなってきているなど、地上絵を取り巻く環境の改善も忘れてはならない。
 この地上絵については1000年以上前に、当時のナスカ人によって描かれたという説が有力だ。なぜ上空からしか見えないような巨大な絵を残したのかについてはいろいろな学説があるが、ドイツの数学者マリア・ライヘ(Maria Reiche)は、この絵は天道を描いたもので、収穫の際に利用されたという「天体カレンダー説」を唱えた。多くの線が月や太陽の動きを示しており、その他の絵については当時の星座を表すものであるという。ナスカ文明時代にはすでにロープと数学を利用して、絵や幾何学模様を巨大な地上絵に拡大できる技術を持っていたということを、ライヘは信じて疑わなかった。
 しかしこの説は単なる偶然の積み重ねであり、統計学的にも信頼性が低いとする学者も多かった。イギリスのドキュメンタリー作家トニー・モリソン(Tony Morrison)は、ナスカの地上絵はインカの球帯図の祖先にあたるもので、それぞれの線の延長線上に、重要な神殿などを指し示していた、という説を唱えた。今ではこの理論が多くの人に受け入れられている。
 1960年代後半に、地上絵は宇宙人が飛来する際の着陸ポイントであるという説が出てからは、世界中の神秘家の間から注目を浴びるようになった。中には地上絵のど真ん中にキャンプを張って、未知なるパワーを吸収しようとするものまで出てきた。しかし、このような行為はもちろん禁止されており、これにより地上絵の風化を早めてしまうことも考えられる。信仰の自由はさておき、非常に無責任な行為であることは疑いの余地も無い。なお宇宙人説については、地元の人から「ナスカ人には地上絵を描く能力が無かったと言うのか?」という怒りの声もある。

 地上絵以外では、骸骨が無数にある墓地跡(Cementerio de Chaucilla)は必見。保存状態が良く真っ白な骸骨が多いため、作り物のように見えるがすべて本物。長い髪の毛がそのまま残っている女性の骸骨、一緒に置かれている子供の骸骨は、逆に生々しさを感じる。
(英語) - 地上絵遊覧飛行、墓地跡ツアーを主催。
URL: http://www.nazcaperu.com/index.htm

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トルヒーヨ(Trujillo)
 トルヒーヨはラ・リベルタド(La Libertad)地方の中心都市であり、1534年にスペイン人征服者の一人ディエゴ・デ・アルマグロ(Diego de Almagro)によって築かれた。トルヒーヨという名前はフランシスコ・ピサロの出身地から取ったものだ。もちろん、スペイン人はこの地方に初めて住み着いた民族ではなく、モチーカ、チムーなどのプレ・インカ民族、そしてインカもこの地方で繁栄した。古代文明の遺物は、20平方キロにも及ぶチムー王国の巨大なチャンチャン遺跡 、モチェ(Moche)文化2つのピラミッド型神殿で知られる太陽のワカ・月のワカ(Huacas del Sol y de la Luna)、壁画の美しいエル・ブルホ遺跡(El Brujo)などで見ることができる。
 訪問地の順序にもよるが、トルヒーヨは「リマへの序章」とか逆に「リマの復習」と呼ばれることがある。トルヒーヨはリマと同様に広がりを持った都市であるが、リマの悪い部分である広場の治安問題や無秩序でわかりづらい道路といったものは持ち合わせていない。リマに比べてコロニアル調の建造物は輝きを持ち、通りにはしゃれたカフェやディスコ(discotecas)が並ぶ。
 週末はワンチャコ海岸(Huanchaco)に人が集まる。美しい砂浜で波を見ながら、のんびりとリゾート気分を味わえ、またここでは葦で作られたトトラ船も見ることができる。海岸沿いにはシーフードレストランやホテルが並び、日が暮れた後も人気がなくならない。

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チクラヨ(Chiclayo)
 「友情の町(La Ciudad de La Amistad)」というニックネームが付くぐらい、チクラヨの人々は人見知りせず、好奇心旺盛、その上話し好きと言われている。さすがに日本語を話せる人にはほとんどお目にかかれないが、ブロークン・イングリッシュでもできれば、一日滞在するだけで、現地の人といろいろと話ができるかもしれない。
 チクラヨ周辺には、モチーカ、チムーなど、未だに謎の多いプレ・インカの遺跡が数多く残っている。1987年にモチーカ国王の墓が発見されたシパン遺跡 では、無数の黄金が発掘された。また、28ものピラミッドで有名なトゥクメ遺跡 は、チムー文化前のシカン文化のものであり、1991年にやはり黄金の埋蔵品が発掘された。ただし、どちらの遺跡に行っても、本物の黄金は見ることができないので注意。発掘された埋蔵品はランバイエケ(Lambayeque)のブルーニン博物館 で見ることができる。

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イキトス(Iquitos)
 この町にインカの遺跡はない。ここにある歴史と言えば、熱帯雨林とそこに生息する動植物のはるか昔からのライフサイクル、それとここ100年余りの間に起きた人類による環境の変化だ。20世紀の始めにゴムの生産地として大きな発展を遂げたこの地域は、その後木材用に大規模な森林伐採が行われ、これは現在でも続いている。
 一方でこの地域は、ジャングルの大自然を体験したいという旅行者に人気があり、最近になって観光業も大きく発展している。ただし、多く旅行者がこの地域について誤解を抱いていることがある。リマなど都市部から離れているとはいえ、物価は決して安くないのだ。輸送が飛行機と船に限られてしまうため、物流にコストがかかってしまい、それがそのまま価格に反映してしまっている。ジャングルツアーも信頼できる旅行会社だと、結構値が張るものが多い。安いところもあるにはあるが、お金を払ってツアーに参加したら、あとで大金を吹っ掛けられたということもあるようだ。なかには安くて信頼できるツアーもあるだろうが、その区別は一般旅行者にはほぼ不可能だろう。また、ジャングルに行けば野生動物に簡単に遭えると思っている旅行者も多いが、哺乳類に関して言えば、ジャングルのような密林は隠れ場所がたくさんあるようなもので、残念ながらほとんど見る機会は無いと言っていい。しかし鳥類は別で、例えば乾季の終わりにはコンゴウインコの群れを見ることができる。あと昆虫も非常に多い。もちろん蚊もたくさんいるので、虫除けスプレーは絶対に忘れないように。
 ここではアマゾン・ジャングル・ツアーが目的の人が多いだろう。アマゾン河 をカヌーで下ったり、ピラニア釣りをしたり、ジャングルの中でキャンプしたりと、内容はさまざま。もちろん旅行会社や料金にもよる。イキトス市内では、明るい雰囲気の市場のあるベレン地区 、ゴム産業で繁栄していたころのイキトスの写真を見ることができるアマゾン博物館 などが見どころ。

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参考文献:  『Let's Go - PERU & ECUADOR』 ST. MARTIN'S PRESS 2000年
ダイヤモンド・ビッグ社『地球の歩き方103 ペルー ボリビア エクアドル コロンビア』 2000年