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製作: 小川 邦久

インカ/ペルーの歴史


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古代〜インカ前 インカ帝国の繁栄 スペイン人の征服
植民地時代 独立運動 近代〜現代


古代〜インカ前
 考古学的検証により、今から約12,000年前、現在のペルー、エクアドルの海岸地帯に古代文化が栄えたことが分かっている。初期の定住者は狩猟・採集、それに魚を捕らえることで生活していたが、後に農業中心の生活に移り変わっていく。この地方独特の穏やかな海流と風で、理想的な農業地として8,000年以上繁栄させることになった。
 エクアドルのサンタエレナ半島を中心に発達したバルディビア(Valdivia)文明は、紀元前3,500〜1,500年頃まで続いた。数々の女性の土偶が作られ、木とワラで出来た家が建てられ、村の中央広場を貝殻で敷き詰めて儀式に使用するなど、当時としてはその地域の中で一番発達した文明を持っていた。建設にさまざまな素材が使用されていることから、この当時、すでに海岸地方、高山地方、ジャングルを結ぶ流通があったものと思われる。
 これ以外にもモチーカ(Mochica)、ナスカ(Nazca)、チムー などで文明が発達し、高山地帯の人たちと物々交換を行い、また海洋交通もより重要になってきた。
 中でもペルー南部のナスカ文明は、砂漠地帯に有名な巨大地上絵を残し、また陶器もかなり高い品質のものが作られている。
 ペルー北部のモチーカ文明は、神を祭るための巨大ピラミッドで知られる。また当時の広大な干拓により、もともと不毛の土地だった所が農業が可能になり、人口5万人を抱えるまでになった。
 その後1世紀ごろまでに、かつて栄えた文明の種族の多くが、アンデスの高山地方に移り住むようになる。干拓が広まり、トウモロコシ、キヌア、豆、イモ類、カボチャ、パイナップル、アボカドなど、様々なものが栽培されるようになった。またこの頃には各地域の首領が軍隊を持つようになり、土地を区分し、そして数々の村が同盟によって統合されていった。
 ペルー北部のアンカシュ(Ancash)地方で栄えたチャビン文明 は、その独自の思想、儀式、宗教、芸術をかなり広い地域に普及させた。よく知られているのが宗教用の図解書で、これにはジャガーを始めとする様々な動物が描かれている。この古代文明は1,000年以上に渡って続いたが、後のインカ帝国の征服により、はかなくも消えてしまう。

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インカ帝国の繁栄
 インカ文明はスペイン統治前の歴史の中で、最も広範囲に渡り、学術的にも重要で意味の深いものを残した。インカ族は当初ペルー南部クスコ(Cusco)周辺の小さな部族に過ぎなかったが、後のインカ帝国は15世紀の中ごろから急速に勢力を広めて行き、100年のうちに南米大陸の約1/3の面積と1千万人を超える人口を統治するまでになる。驚くべきことにこの勢力拡大は、大量輸送に欠かせない「車輪」と、情報の伝達に必要な「文字」を全く使用することなく達成されている。建造物に使用された巨大な石は、主にてこを用いて人力または牛馬などによって運ばれ、また文字の代わりに「キープ」と呼ばれる毛製の紐に結び目を規則的に編みこむことにより、様々な情報が伝達された。インカ帝国は15世紀後半にクスコを基点にして現在のペルー北部、そしてエクアドルへと勢力を拡大していく。  インカ帝国の征服は主に闘士パチャクティ・インカ・ユパンキ(Pachacuti Inca Yupanqui)の指導の下に行われた。エクアドル南部のカニャーリ族 を始めとするいくつかの部族に対しては、激しい抵抗に遭ったため、山岳地帯から海岸地帯まですべての民族を降伏させるのにほぼ40年の歳月を費やした。パチャクティ・インカ・ユパンキの孫で、カニャーリ族の皇女の子供であるワイナ・カパック は、後に現在のチリ北部からコロンビア南部に渡る広大なインカ帝国の支配者となった。
 インカ征服後も各部族の土着宗教など、信仰に関わるものについてはほとんど手をつけずに残されたが、その他社会に関するほとんどの部分が変わることになる。ユッカ、ピーナッツなどの新しい食料品に加え、灌漑や段々畑による栽培などの農業技術、それに土地の所有に関しての新しい概念も導入された。以前までの個人所有に代わり、土地はインカ帝国の所有となり、アイユ(Ayllu)と呼ばれる祖先を共有する者たちによる血縁的集団が作られ、畑の耕作、家の建築、屋根のふき替えなどが共同で行われていた。アイユはその作物の一部のみを消費が許され、あとはインカの首長にあたるクラカ(kuraka)に貢ぐことが要求されていた。
 ワイナ・カパックは現在のエクアドルに当る地方で育ち、その土地に対する愛着心から、キト(Quito: 現在のエクアドルの首都)をインカ帝国第二の首都に制定する。ワイナ・カパックは大きく拡大した帝国の社会的不安を恐れ、時間さえあれば反乱や強力な団結を静めるために国中を周った。時には違う民族同士の者を結婚をさせたり、また手におえないような反逆者に対しては追放を行い、代わりに平和な地方から人々を入植させた。この入植によって、インカの伝統的な言語であるケチュア(Quichua)が大きく広まる。ケチュアは現在でもペルーとエクアドルのインディヘナの多くに使われている。
 1526年、ワイナ・カパックの突然の死(恐らく当時のヨーロッパの探検家が持ち込んだ「はしか」に感染したものと思われる)により、冷酷な権力争いが起こり、それは後に内乱にまで発展した。インカ帝国は一人の後継者に受け継がれず、二人の子孫によって分断される。クスコ及びインカ帝国南部は、ワイナ・カパックの妹の息子であるワスカル の手に、もう一方のエクアドル、インカ帝国北部はアタワルパ(Atahuallpa)の支配下となる。その後1532年にアタワルパはリオバンバ(Riobamba: エクアドルのほぼ中心)で、ワスカルを徹底的に打ち負かす。内乱は終了したものの、インカ帝国は二分化されたまま弱体化しており、数ヶ月にやって来るスペインの征服者に対して、何の準備もされていない状態だった。

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スペイン人の征服
 インカ帝国が南米大陸で繁栄したころと同時に、スペインは新しい世界への欲望を燃やし始めていた。スペインの征服者達はメキシコと中央アメリカの人々から略奪を行い、服従させた後、さらに向こうの広大な大陸へと足を伸ばそうとしていた。その征服者の一人フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)は1522年にニカラグア征服を成功させた後、パナマの大地主となり、その後資金援助を受けて1524年より南米大陸西海岸への探検旅行を数回行った。このうちの何回かは失敗に終わり、ピサロは当時の国王カルロス一世により多くの資金援助と人材を嘆願する。最終的にその願いは叶えられ、再構築された二百数十名の部隊は1531年終盤にペルー北部の海岸に上陸する。1532年の中ごろには、後にエクアドルの征服を指揮したセバスティアン・デ・ベナルカサル をペルー最北部のトゥンベス(Tumbes)に置き、スペイン部隊の拠点とした。インカもこの上陸についての情報は耳に入っていたものの、これが彼らにとって恐怖となることに気づいていなかった。
 インカの巨大な富の話を聞いていたピサロは、ペルー北部の高地にあるカハマルカ(Cajamarca)に向かい、1532年11月、インカの温泉 で休息を取っていたアタワルパを発見する。その後、アタワルパは数千人の護衛を率いてカハマルカの広場でピサロの部隊と会い、そこで従軍司祭のドミニコ会士バルベルデがアタワルパに向かい、インカの神を放棄しスペインの国王に忠誠を誓うよう命じたが、アタワルパはこれを拒み、聖書を地に投げつけた。しかしこれは広場を囲っていたスペイン人兵士の感情を大きく逆撫ですることとなる。用意されていた軽砲が火を噴き、インカの要人を含む何千人もの人々が虐殺され、そしてアタワルパ本人も捕らえられた。
 アタワルパは幽閉中にワスカルがスペイン人と結びつくことを怖れ、密かに使者を送りワスカルとその親類、それに何百人もの軍人を処刑した。しかし皮肉にも、これがインカ帝国弱体化に拍車をかけることとなってしまう。
 ピサロは身代金としてアタワルパが幽閉されていた牢屋を金(きん)でいっぱいにして、さらに二度銀でいっぱいにすることができたら釈放するという条件を出した。これは合計約15トン分に相当する。アタワルパはこれに従うが、その後、スペイン国王への反逆罪、ワスカル殺害の兄弟殺しの罪で裁判を開かれ、火あぶりの刑に処せられることになる。伝統的なインカの崇拝を信じるアタワルパだったが、カトリックへの改宗を条件に、なんとか火あぶりの刑を逃れようとする。その後ファンというカトリック洗礼名を受けるものの、結局1533年7月に絞首刑が執行されてしまう。
 アタワルパの死と共に、インカ帝国の強力な団結も死滅してしまう。ただそのような状況下でも、まだインカの戦士達は帝国を守ろうとした。キトではカニャーリ族の助けの下、将軍ルミニャウイ がスペイン人に抵抗し続けたが、ピサロの兵隊長の一人セバスティアン・デ・ベナルカサルは、チンボラソ山(Mount Chimborazo: 標高6,310mの火山)の麓でルミニャウイを打ち破り、インカを北へ北へと追いやった。1534年中ごろ、ルミニャウイはスペイン人がキトを征服する日が近いと見て町に火を放った。第二のインカの首都をスペイン人に征服されるよりは、自らの手での破滅を選んだのだった。キトはその後1534年12月6日にスペイン人によって再建され、この日は現在でもパレード、踊り、闘牛などで祝福されている。
 その間、スペイン人はインカの首都クスコ征服も開始しようとしていた。猛攻撃を開始するにあたって、インカによる服従の年月を終えさせる、ということを前面に出して、現地の人々の協力を要請する。ワイナ・カパックの子を名乗るマンコ・カパック二世(Manco Capac U)もこの考えに同調し、ピサロにインカの支配者としての地位を約束されると共に、スペイン人と協力しあうことを誓った。しかしマンコはその後、自分が操り人形のような存在でしかないことに気が付き、1536年、同盟に反してインディヘナによる反乱をけしかけた。しかし、マンコの部隊は数こそスペイン部隊に勝っていたものの、征服者達を追い出すことは出来ず、自暴自棄な形で町に火を放つのがやっとだった。この挫折から、マンコ・カパック二世はアンデス山中の奥深くにビルカバンバ(Vilcabamba)という秘密の町を造り、ここに新しいインカ王国を建国してその生存の最後の可能性を探った。

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植民地時代
 ピサロはインカの征服においてはその類まれなる能力を発揮したが、残念ながら平和な社会を造る能力に関しては全く欠けていたと言える。国中に闘争、内紛がはびこったのだ。この時代は征服者達がエンコミエンダ(encomienda)という制度を設け、インディヘナに対して奴隷的なひどい扱いを行うようになった。クラカはより強力になったスペイン人に同意して、アイユからの報酬をそのまま受け渡すことになり、インディヘナにキリスト教の布教活動も行われるようになった。このエンコミエンダの時代は、非常に不安定であり、植民地支配者とインディヘナの間に闘争が生じ、またスペインの土地所有者の中でも暴力による権力争いがあった。
 もともとペルーもエクアドルも、リマにあるアウデンシア(audencia: 高等裁判所)とカビルド(cabildo: 地方裁判所)によって統治されていた。植民地の人口が増えるにつれて、リマのアウデンシアはもはや十分なコントロールが出来なくなっていまい、1563年エクアドルのキトに新しくアウデンシアが設立されることとなった。これによりスペインが全領土を統治しやすくなり、数世紀に渡って植民地制度が続くこととなる。
 その後統治機関の中心はリマからコロンビアのボゴタに移され、アウデンシアと都市当局は奴隷制度とエンコミエンダ制の廃止を盛り込んだ新しい法律を1542年に施行した。しかし実際にはこの法律は守られず、奴隷制度とエンコミエンダ制は植民地時代が終了するまで続けられる。また都市当局は全インディヘナをスペイン国王の支配化に置く新しい条例を造りあげた。またミタ(mita)と呼ばれる新しい労働制度も導入されるようになった。この制度により、18〜50歳までの全ての男は毎年最低2ヶ月はスペイン国王のために働かなくてはならなくなる。コレヒドレス(corregidores)というミタ制度監理者の下で、インディヘナは農地、縫製工場、鉱石の採掘場などに配置される。ペルーでは豊富な鉱物資源が取れるが、鉱石の採掘場の労働は暗く危険で、非常に過酷な条件であった。
 しかし、インディヘナにとって最たる恐怖は病気であった。天然痘とはしかがヨーロッパの植民地支配者によって持ち込まれ、海岸沿いの人々をほぼ全滅状態にし、また高山地帯の人口も1690年代の大流行で大幅に減ってしまった。スペイン植民地支配が始まった年には2000万人いたインディヘナの人口は、約400万人まで大幅に落ち込んでしまった。

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独立運動
 18世紀になり、スペインにブルボン王朝が誕生し、植民地支配がより強まったことで緊張が一気に高まった。クリオヨス(Criollos: 中南米など、ヨーロッパ以外で生まれたヨーロッパ系人種)は、スペインで生まれたペニンスラレス(peninsulares)にのみ公職につく特権が与えられることに加え、高い税金やインディヘナ労働区域への立ち入り制限などに非常に腹を立てていた。ヨーロッパで七年戦争が終了した後、敗北し破綻したスペイン王朝が、ブルボン改革と呼ばれる植民地の利益をさらにコントロールできる制度を施行したが、これは王朝とクリオヨスの関係をさらに緊迫させるものとなる。
 1808年、ナポレオンがスペインを侵略、国王フェルディナンド七世を退けた時からペルーとエクアドルの方針は大きく分離する。エクアドルではクリオヨスが勢力を発揮して独立運動を行ったのに対し、ペルーでは総督ホセ・フェルナンド・アバスカル がスペイン王室の一員として残ることを決定する。これは1780年にトゥパック・アマル二世 の指導のもと、インディヘナとメスティソ(mestizo: 混血)によって引き起こされた大反乱に対し、クリオヨスがまだ恐怖を抱いていたこととも関連している。この反乱は人種間の闘争ではないと公言されていたものの、実際には白人(クリオヨス)−インディヘナ間での暴力が多数発生しており、クリオヨス側としては、スペイン王朝の一員として残ることで、さらなる反乱を押さえつけようとした。
 この時代はクリオヨスの団結が強く、また政治的、金銭的にも優位であったため、独立運動を行うためには彼らの協力は必要不可欠ではあった。後にフェルディナンド七世はナポレオンの退位によって復権するが、彼の中南米における厳しい植民地制度は、現地の人々の不満をより大きくしていった。しかし、それでもペルーの独立運動はエクアドルのように自主的には発生せず、外側から課せられたような格好である。
 名将ホセ・デ・サン・マルティン はアルゼンチンの独立を成功させた後、ペルーの独立を達成させることでその国政も維持できるものと信じていた。1819年、サン・マルティンはペルーのスペイン王国支持派に対して軍事行動に出た。リマを支配下に入れた後、1821年7月28日にペルーの独立を宣言する。しかし、この独立宣言は実効力がなく、南の山岳部では王国支持派が根強く抵抗し続けていた。この王国支持派を打ち負かすべく、サン・マルティンは解放者シモン・ボリーバル に援助を求め、エクアドルのグアヤキル(Guayaquil)で打ち合わせを開いた。この話し合いは物別れに終わったが、その後サン・マルティンは長年を過ごしたヨーロッパに戻ってしまったため、ボリーバルがこの闘争の主導権を握ることとなる。勝利に勝利を重ね、軍をホセ・アントニオ・デ・スクレ に任せて、最終的に1824年12月9日のアヤクチョの戦いでスペイン王国派の軍隊を打ち破った。

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近代〜現代
 ペルー独立が達成されてから、権力はペニンスラレスからクリオヨスへと移行する。約2年間ボリーバルが国を統治し、その後は軍隊の勢力が高まっていく。
 1830年代後半にペルー国内で小規模の市民戦争が数回勃発し、これを見たボリビア軍は1836年にペルーを侵略、ボリビアがペルーを統治する形の「ペルー・ボリビア同盟」を一方的に結ぶ。この不平等同盟は1839年のチリ軍のペルー侵攻により終了する。
 1845年にグアノ(guano)と呼ばれる海鳥のフンが化石化したものが、窒素肥料として大量に輸出され、「グアノ・ブーム」と呼ばれる好景気を呼んだ。この輸出により、約5億米ドルの外貨を獲得する。ラモン・カスティーヤ は、このグアノ・ブームを利用し、ペルーの国力を弱めてきた内紛を抑え、また大幅な社会改革、経済改革も行った。中でも外国に対して借款を返済できたことにより、国の経済的信頼度を高めることができた。しかしカスティーヤはその後、グアノ・ブームで得た利益を道路の建設費に大量に投入してしまい、これがもとで国の情勢がまた不安定化してしまう。さらに、エクアドルとの国境紛争、チンチャ(Chincha)島をめぐるスペインとの紛争に加え、1873年の世界恐慌によって、ペルーは新たに莫大な対外債務を抱えることになる。これに追い討ちをかけるようにして、1879-83年のチリとペルー・ボリビア間での太平洋戦争の敗北により、肥料に用いられる硝酸化鉱物の多く取れるタラパカ 地区を譲渡し、タクナ(Tacna)地区、アリカ(Arica)地区についても10年単位で譲渡の契約を更新する、ということになり、これによる経済的なダメージは相当なものであった。
 1880年代の後半、イギリスがこの苦境に助け舟を出した。グレース・コントラクトと呼ばれる契約が結ばれ、イギリスの債権者はペルーの莫大な借金の取り立てをあきらめ、その代わりペルーの鉄道を66年間、債権や動産の毎年の利益についても30年間支配できる権利を得た。イギリスによる大規模な経済支配があったものの、輸出の拡大などにより国政は再び復興の兆しをみせるようになる。1990年代中盤よりエリート商人を中心としたシビリスタ(Civilista)党が権力を持つようになり、輸出を中心にした経済政策が功を奏するなどして、第一次世界大戦が始まるまでの約20年間、ほぼ一党独裁のような形であった。
 1919年に、主に低中所得者層の支持によって大統領に選ばれたアウグスト・レグイア は、オンセニオ(Oncenio: 11年規約)を前面にして憲法を大幅に改正し、さまざまな経済改革案、社会改革案を打ち出した。この社会改革案には教育、金融、都市建築についても盛り込まれ、特に教育と都市建築については、中所得者層から多大な支持を得る。しかし社会の大多数を占める低所得者層に対しての救済は成功できなかった。レグイアも輸出産業に重点を置いて経済を成長させることが出来たが、その富が一部の人々にのみ集中する構造に加え、またもグアノ・ブームの時の様に政府が必要以上に大量の出費を行ってしまい、そして1929年の大恐慌によってレグイアも権力の座を失うこととなってしまう。
 1930〜1956年の間、APRA(Alianza Popular Revolucionaria Americana: 革命人民同盟)と友好的な関係だったホセ・ルイス・ブスタメンテ が3年間政権を担当した他は、その全く反対の思想の持ち主である軍部が政権を握っていた。一切の労働組合やストライキを禁止し、反対者に対しては弾圧を行った。そのためAPRAは違法団体に指定されてしまう。
 1956年、改革派であるAPRAと保守派のマヌエル・プラドがコンビベンシア(convivencia)と呼ばれる同盟を結び、政権を握るようになる。この奇妙な組み合わせはプラドを当選させて、さらにAPRAを合法化する目的で作られた。もともと過激なプロパガンダで知られるAPRAだったが、保守派と政権を握ることですっかりその過激さが影を潜めてしまい、数年に渡りAPRAを支持してきた人たちの失望は計り知れなかった。そのAPRAに代わって支持を受けたのがAP で、1963年に政権の座に就く。しかし、もともとAPRAを支持してきた人たちの過激な意見を取り込むことができず、さらに1960年代中盤の経済停滞によりAPの支持は急激に衰え、国民の大多数を占める低所得者層はより行動的かつ過激な政策を望むようになる。
 1968〜1980年は取って代わって軍事社会主義政権となる。ベラスコ・アルバラード(Velasco Alvarado)はAPRAやAPに不満を持つ人々の支持を集め、革命的な社会主義政策を進める。基幹産業の国有化と農業の集団労働化を行い、価格と賃金を厳しく監視する省庁を設立した。しかし、他の社会主義国家の多くがそうなってしまったように、行き過ぎた官僚主義による政治腐敗と経済の停滞が起こり、急激なインフレを引き起こしてしまった。
 1980年に政権に就いたフェルナンド・ベラウデ は、就任してすぐにアルバラードの進めた社会主義政策を廃止し、市場経済体制に移行させる。しかし、ペルーの通貨であるソルが下落したこと、輸入を解禁したことにより輸出入のバランスが崩れたこと、さらに政府が国内での過剰な出費を行ったため、その後大きなインフレにつながった。1985年には年間163%におよぶインフレを記録した。
 1985年にベラウデは再選挙に臨むが、APRAのアラン・グラシア・ペレス に政権を譲ることになる。歴史上始めてのAPRAの単独政権である。しかし今回は保守派と同盟を組むようなことは無かったものの、やはり過激な主張はまたすっかり影を潜めてしまった。就任後の最初の2年は、経済は比較的良好であり、またこの好景気により輸入量が増え、さらにこれが内需を拡大させた。しかし、輸入量が極端に増えたことで輸出入のバランスが大きく崩れて、またもや大規模なインフレを起こしてしまう。政府はインフレに対して全く対策を講じなかった上、中央銀行に多額の借金をしてしまうが、グラシアはこれをさらに悪化させるような政策を取る。国の金融システムを国有化してしまったのだ。これによって大統領自信が周りの監査を受けずに自分の政策のもと金融の操作を行うことになり、民間企業の機密性が大きく損なわれてしまうことになる。このため個人投資は激減し、インフレ率は天井を突き抜けるような勢いになってしまった。
 1990年の大統領選挙でアルベルト・フジモリ(Alberto Fujimori)はカンビオ'90(Cambio: 変革)を掲げ、多くの人々の支持を集めて当選する。公約であった段階的な経済改革は行わず、代わりにフジショック(Fujishock)と呼ばれる大胆な政策が進められていった。まずはインフレ対策。民間部門に対しては政府の支配力を必要に応じて広げたり縮小させるなどの方式を取り、また公的部門に関しては大幅な値上げを行った。加えて国の借金の返済、関税の引き下げ、貿易の自由化などにも取り掛かった。このような大幅な改革を実行する際には、別の所で何らかの歪みが生じることが多いため、通常これを吸収する対策も平行して行うのだが、フジショックにはこのようなことは全く盛り込まれていなかった。しかし結果的にこのショック療法的政策は見事に成功し、1990年には2300%だったインフレ率が、2年後の1992年には10%以下にまで下り、また1994年には12%の経済成長率を記録した。フジモリはテロ対策も徹底的に行った。1992年にセンデロ・ルミノソ(Sendero Luminoso: 輝ける道)の指導者アビマエル・グスマン を逮捕。1995年に二期目の当選を果たした後、1997年に起きた日本大使公邸占拠事件では、人質71人の開放を成功すると共に、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)の武装グループ14人全員がその場で射殺となった。2000年に三期目の当選を果たすが、選挙運動が公平に行われていなかったことへの内外の批判に加えて、側近が与党多数派工作のため野党に現金を渡す現場を撮影したビデオが公開されたことなどが引き金となり、同年11月中にペルー国会は「大統領職務の停止宣言」を採択して、フジモリにとっては不本意な形で政権に幕を閉じることになった。
 2000年11月にフジモリの後任として、暫定的にバレンティン・パニアグア(Valentin Paniagua)が大統領に就任し、その後2001年6月に行われた大統領選挙決選投票で、アレハンドロ・トレド(Alejandro Toledo)候補が当選を果たした。

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参考文献:  『Let's Go - PERU & ECUADOR』 ST. MARTIN'S PRESS 2000年
高橋 均、網野 徹哉著『世界の歴史Qラテンアメリカ文明の興亡』中央公論社 1997年