ケニア・サファリのススメ

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ケニアの歴史

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人類誕生
初期の移住者
インド洋交易
ポルトガル人の侵略
オマーンの支配
19世紀植民地政策
白人の移住
モイ大統領政権
 
 

人類誕生
 
 最近のDNA研究によって、ヒトと類人猿のチンパンジーが分岐したのは、400〜600万年前であると推定されるようになった。それを裏付けるように、1992年にエチオピア北東部のアラミス遺跡で440万年前の猿人が発見される。ほぼ同じ時期にケニア国立博物館のリーキーらによって、やはり二足歩行ではあるが類人猿のような歯を持つ新種の化石が発見された。これらは全てアウストラロピテクスの一種で、約400〜100万年前までの長い期間生息していたということがわかっている。
 リーキーらはその後、タンザニアのオルドゥバイ渓谷(Olduvai Gorge)とケニアのツルカナ湖(Lake Turkana)で、アウストラロピテクスよりも大きい脳容量を持つ人類の頭蓋骨の破片を発見する。この人類は200〜160万年前にわたって生息していたものと推定され、『ホモ・ハビリス(Homo Habilis)』と命名された。
 この発見後、ケニア中央を走るリフト・バレーは人類誕生の地として一躍有名になり、今まであった人類の起源についての説を覆すことにもなった。この発掘前まで、人類の祖先はアウストラロピテクスであるとの説が受け入れられていた。アウストラロピテクスの一種が、現在のホモ・サピエンス(Homo sapiens)まで進化したという説だったのだが、今ではホモ・ハビリスが最初のヒト族であるという説が広く受け入れられている。アウストラロピテクスは一種残らず絶滅してしまったものと考えられるようになった。
 約180万年前にはホモ・ハビリスよりもさらに脳容量の大きいホモ・エレクトス(Homo erectos)が登場し、アフリカで約100万年間生息し続けた。ホモ・エレクトスは高度な道具を製作することができ、火を利用するようにもなっていた。100万年前には人類はアフリカ大陸の外へ移動するようにもなった。
 ホモ・エレクトスは各地域で独自に進化して、40万〜25万年前には現生種であるホモ・サピエンスが誕生した。しかしネアンデルタール(旧人)人とホモ・サピエンスがどのような関係にあるのかはまだ不明であり、今後のさらなる研究によって、人類の進化の過程が次第に明らかになると期待されている。



初期の移住者
 
 アフリカ東海岸地方はアフリカ各地から人の移動が盛んであり、主要アフリカ言語の全ては現在のケニアにあたる地域から発生したと考えられている。舌を打つ音で知られる南アフリカのコイサン語も、元々は東アフリカから来ていると考えられており、アフリカ全土で1000語を越えると言われる言語の多様性と、その地理的な広がりから、ケニアが何世紀にも渡って様々な民族を抱えてきたことは明らかである。
 最初のケニアへの移住者はクシ語を話す背の高い遊牧民族で、BC2000年ごろにエチオピアからやって来たものと推測される。この民族は牛やヤギの放牧で生活をしており、気候の変化とともにツルカナ湖周辺が乾燥してきたため、南の方へ移動しなければいけなくなってしまった。中にはタンザニア中部まで南下する者もいたようだ。
 次の移住者はBC1000年頃、ソマリアからやってきたクシ語を話す民族で、ケニア中央部のほとんどの部分を占有するまでになった。その後はBC500年からAD500年にかけて、アフリカ各地の部族が移住するようになる。AD1000年には西アフリカからバンツー諸語族(グシイ族、キクユ族、アカンバ族、メルー族など)が移住し、16世紀の終わりにはナイル諸語族(マサイ族、ルオ族、サンブル族、ツルカナ族など)がスーダン南部のナイル渓谷から移住するようになった。
 なお、サハラ砂漠以南のアフリカは基本的に無文字社会であり、16世紀以前の記録というのはほとんど残っていない。そのため当時の歴史については、現在受け継がれている言語、儀礼、風習などから読み取ることになる。



インド洋交易
 
 アフリカ大陸各地からケニアへの移住が進む中、8世紀頃からアラビア半島やペルシャ(現在はイラン)からイスラムの人々が東アフリカを訪れるようになった。目的は貿易の他、イスラムの改宗や東アフリカへの移住などであり、後にヨーロッパ人が行ったような侵略行為は行わなっていない。『ダウ船』と呼ばれる帆船に乗り、11月〜3月にかけて吹く北東から南西へのモンスーン風を利用して、ガラス製品、鉄製品、布生地、小麦、ワインなどを運び、逆に4月〜10月にかけての南西から北東への風を利用して、象牙、サイの角、亀甲、奴隷を国に持ち帰った。ソマリアからモザンビークに到る3000kmもの海岸線に沿って点々と交易都市が成立するようになり、中には現在まで続いているものもある。またアラビアの貿易商が現地の人と結婚するなどしてケニアに移住し始め、アフリカ人とアラビア人の混血も多く誕生した。この時代は町同士の対立などはあったりしたものの、16世紀のポルトガル人の到着までは比較的穏やかな生活を送っていたと言える。



ポルトガル人の侵略
 
 スペインがアメリカ探検に熱を出している間、ポルトガルは極東地域で貿易の支配権を握っていたオスマン・トルコを破ることを計画していた。ヨーロッパでは香辛料は金(きん)よりも価値があるとされ、特にその貿易の主導権を握ることは重要とされていた。15世紀、ポルトガルはバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の指揮の下アフリカ西海岸を航行し、1498年には南アフリカの喜望峰を周って東海岸を北上する。これによりインドとの香辛料貿易をより盛んにする、新たなルートの発見につながった。
 1505年、ドム・フランシスコ・デ・アルメイダ(Dom Francisco de Aleida)率いる23隻の艦隊と1500人の兵によって、東アフリカ海岸地帯への猛襲が始まる。ソファラ(Sofala)が焼き討ちされ、モンバサ(Monbasa)は爆撃され、キルワ(Kilwa:現タンザニア)はポルトガル兵の駐屯地になるなどして、相次いで占領される。1585年と1589年にオスマン・トルコは支配権を奪取すべく攻撃に出たものの、イスラム国のインド洋交易の独占状態は幕を閉じる結果となる。
 猛攻撃開始から約200年もの間、ポルトガルによる厳しい植民地制度が課せられた。ポルトガル国籍以外の船が海岸沿いの町に到着すると、貢物を要求され、さらに大きく課税させられた。またポルトガル人は貿易の開拓とともに、地元の人々のカトリックへの改宗を押し進めようとした。しかしこれはうまく行かず、ポルトガル前哨隊の撤退と同時に、ほとんどの人がイスラム教の信仰へと戻っていく。モンバサは1593年のフォート・ジーザス(Fort Jesus)砦建築によりポルトガルの要衝となり、その後もアラビア人の攻撃を次々を打ち破ってはいたが、東アフリカ海岸地帯の前哨地は全て総督本部のあるインドのゴアからの供給でまかなっており、物資の遅れのリスクが常にあった。
 1698年、33ヶ月にも及ぶアラビア人の包囲によって、フォート・ジーザスはついに打ち破られる。1720年までにポルトガル人はケニア海岸地帯を去り、もう戻ることはなかった。



オマーンの支配
 
 19世紀後半のイギリス、ドイツの到着まで、アラビア人は東アフリカ海岸地域の実権を握っていた。しかしながらポルトガルの略奪の時代の傷跡は大きく、かつての大繁栄の時代を夢見て東アフリカの貿易をようやく復活させたアラブ諸国の権力者の間でも、論争が絶えなかった。東アフリカ海岸地域の政治・経済の復活は、19世紀の始まりまで待たなければいけなかった。
 18世紀の間はペルシャ湾オマーンから各都市に派遣された総督(ハーキム)、特にモンバサで勢力を伸ばしたマズルイ家(Mazruis)が、アフリカ東海岸での地位をゆるぎないものにしていた。総督らは関税の徴収、軍隊の統率、都市の統治などを委任されており、形の上ではオマーンの君主の支配下ではあったのだが、1805年にサイードが王位に就くまでは比較的自分達の思うように行動できた。
 1822年にサイード王はマズルイ家の支配化にあったモンバサ(Monbasa)、パテ(Pate)、ペンバ(Pemba:現タンザニア)に兵を送り征服する。1830年代にはザンジバル(Zanzibar:現タンザニア)にストーン・タウンという王都を築き、それから沿岸部から内陸へ伸びる交易ルートの支配を行う。このルートは主に象牙の運搬に利用された。
 マズルイ家はサイード王の征服の後、イギリスに助けを求め、その翌年イギリスは2隻の軍艦を送って調査に乗り出した。このうちの一隻の指揮者であるオーエン(Owen)は、突如イギリス国旗を掲げてフォート・ジーザスに乗り込み、ここを保護領であるということを宣言する。しかし3年後、イギリス政府は保護領の宣言を取りやめ、フォート・ジーザスにあったイギリス国旗も引きずりおろされてしまった。サイード王は翌年、再度フォート・ジーザスの支配を宣言して駐屯し、それからザンジバルにはクローブ(香料の一種)農場を開き、1832年にはサイード王の王宮がザンジバルに移された。


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19世紀植民地政策
 
 ヨーロッパ諸国のアフリカ植民地政策により、19世紀の後半までにアフリカ大陸の国境線がほぼ定められた。ただしこの国境線のほとんどが緯度や経度によって線を引かれたような人為的なもので、民族分布などの事情は完全に無視されている。イギリスとドイツ間でも、アフリカ東海岸の領土について合意に達し、この中にザンジバルのサルタン(君主)はイギリスの保護下で16kmに及ぶケニアの海岸線を所有する、というものもあった。
 ケニア内部のリフト・バレーとアバディア高地は、1880年代までマサイ族(Maasai)占有の領土として考えられていた。マサイの「戦士」としての評判は、アラビアの貿易商や奴隷商、ヨーロッパの宣教師や探検家の思いを抑制するのに十分だった。しかしアフリカの他の地域についてはヨーロッパ人に隈なく探検されており、ケニアもすぐにその時期がやってくることになる。
 初期の主な探検家は、ドイツのグスタフ・フィッシャー(Gustav Fischer:1882年にナイバシャ湖/Lake Naivashaに着くが、ヘルズ・ゲイト/Hell's Gateでマサイに徹底的にやっつけられる)、スコットランドのジョセフ・トムソン(Joseph Thomson:1883年にリフト・バレー、アバディアを経由してビクトリア湖に到達)、ハンガリーのサムエル・テレキ(Samuel Teleki:1887年にツルカナ地区とケニア山を訪れる)など。彼らは生きて帰ってくることができたが、英国国教会の司教で1885年にウガンダで教区を設立したジェームス・ハニントン(James Hannington)のように、ボゴリア湖(当時はハニントン湖の名称)を発見した後、ナイル川で殺されるような不幸な者もいる。
 19世紀後半になると、マサイ族はコレラ、天然痘などの病気の流行と飢餓で人口が減り、さらに部族内部の対立があるなどして弱体化していく。この状況を見て、イギリスはマサイの酋長であるオロナナ(Olonana:現在はレナナ/Lenanaの名で知られる)と話し合いを行い、最終的に条約を結ぶことになった。この条約によりモンバサ−ビクトリア湖を結ぶ鉄道工事が開始されることになる。この鉄道の始点であるモンバサと終点ビクトリア湖のちょうど中間あたりが、現在のケニアの首都ナイロビの位置にあたる。



白人の移住
 
 モンバサ−ビクトリア湖を結ぶ「ウガンダ鉄道」が完成し、モンバサにあった植民地行政当局がナイロビに移されると、白人は農地を求めてナイロビ北部の肥沃な高地へと移動し始めた。これに対して元々の住民であるマサイは大きく抵抗したが、白人は植民地行政当局に対し、鉄道の北側と南側の2つの保護地区を設けて、マサイ族をそこに居住させるという要求を申し出た。結局白人は、鉄道の北側の土地を欲しがるようにもなり、1910年と1911年、オロナナの反対にも関わらず、北側に住んでいたマサイは南に移動することを強要されてしまう。
 白人移住者に一番多く土地を取られてしまったのはマサイ族である、ということは恐らく事実であるだろうが、ケニア山西部とアバディアを占有していたキクユ族(Kikuyu)とバンツー族(Bantu)の両民族もかなりの土地を取られている。キクユ族はその後20世紀になってから、白人による阻害に対して強く不満を訴えることになる。なお、ケニア北西部を占有していたルオ族(Luo)、ルヤ族(Ruyha)は特に大きな被害に合わなかったといえる。
 20世紀前半の白人移住はイギリスのデラメアー卿(Lord Delamere)によって指揮されていた。デラメアー卿はケニアの土地感や害虫、野獣に関してはあまりなじみが無かったことから、最初の投機的事業であった羊牧場や小麦の栽培は悲惨な結果に終わった。しかし1912年までにデラメアー卿と支持者は高地へ移動し、より収益の上がる総合農場を開拓した。同じ時期にカレン・ブリクセン(Karen Blixen)など他のヨーロッパ人たちは、コーヒー栽培を開始するようになった。
 白人のケニア移住は第一次世界大戦により一時中断された。この戦争ではケニアに住んでいた約3000人のヨーロッパ人が徴兵され、全く準備なしでタンガニカ(現タンザニア)に向かいドイツ人の捜索にあたった。戦争が終了した後、徴兵された人々に対して土地を格安価格または長期ローンで購入できるという企画のもと、白人の移住が再開された。この効果で白人の移住者は1920年に9000人に、1950年代には8万人まで達するようになった。



アフリカ民族主義
 
 白人に土地を奪われたキクユの人々はナイロビに移住するようになり、また植民地支配の経済に疲れ果てる者も多く出てきた。自分達の土地からしめ出されたことの怒りから、キクユは自らの土地を取り返すことを主とした団体を作るようになる。
 初期のキクユ政治団体の代表的リーダの一人として、ハリー・ツク(Harry Thuku)が挙げられる。1922年に反体制的な政治活動のため植民地行政当局に逮捕された直後、大勢のアフリカ人がツクの拘束されているナイロビ中央警察の周りを取り囲んだ。その後警察が発砲。正確な数はわかっていないが、20〜100人が死亡したと見られている。
 ツクはソマリアのキシマヨ(Kisimayo)に国外追放になり、その後植民地行政当局の協力をすることを合意した後、1930年に帰国・釈放となる。この合意によりツクはキクユ運動家のリーダーとしての地位を失う。しかし、この初期のキクユの政治的な運動は、その後のキクユによる持続的な政治的、社会的、経済的運動の第一歩でもあった。
 ツクの勢いが衰えていく一方で、別のキクユ政治団体からジョンストーン・カマウ(Johnstone Kamau)という者が出てくる。彼は後にジョモ・ケニヤッタ(Jomo Kenyatta)と名前を変え、ケニアの初代大統領になる。ケニヤッタは農民の息子として1892年にナイロビ北部の高地で生まれた。幼年時代は父の飼う羊の群れの面倒を見る生活を送り、10代になるとスコットランド系のミッションスクールに入って、ここで教育を受ける。29歳でナイロビに移り、司法機関で働いていたが、雄弁さが手伝って東アフリカ協会(East Africa Association)の宣伝秘書となる。東アフリカ協会はアフリカ人のために土地、賃金、教育、医療などの向上を目指す目的で設立された団体である。当時アフリカ人はホテルやレストランなどに入ることもできず、植民地支配の中で単純作業の労働者としか見られていなかった。
 イギリス政府は白人移住者とアフリカ人の間で衝突が起きるような場合には、アフリカ人の主張を優先するという公式見解があったのだが、実際には白人のみの立法政府で、デラメアー卿の指揮する圧力団体の影響により、アフリカ人の主張は無視されることが多かった。このことに気付いたケニヤッタは新たにキクユ中央協会(Kikuyu Central Association)に所属し、中央事務局長に就任する。その後すぐ、ケニヤッタはイギリス本土の植民地行政当局秘書にキクユ族阻害の件の申し立てを行うため、1929年にインド人からの資金援助を受けてロンドンに渡る。結局植民地行政当局秘書には面会は断られたものの、その後反帝国主義同盟に参加して、モスクワ、ベルリンを訪問した後、ナイロビに戻ってきた。その翌年、ケニヤッタはロンドンを再び訪問し、そのまま15年間滞在する。ロンドンではトラファルガー広場で熱弁を振るう一方、モスクワでは革命戦略について学び、スカンジナビア半島では共同農業を訪れ、ヘイスティングス・バンダ(Hastings Banda:後のマラウィ大統領)、クワメ・ンクルマー(Kwame Nkrumah:後のガーナ大統領)とパン・アフリカン同盟を結んだ。1946年にケニアに帰国するまでに、ケニヤッタはケニア自由化運動のリーダーとして認識されるようになった。
 第二次世界大戦の間、ベルギー、イギリス、フランス、イタリアはアフリカからアフリカ人兵を呼び寄せて戦わせた。戦争が終わり国に返ってきた兵士達は現状が受け入れられなくなり、変化に求めて激しく政治運動を行うようになる。
 当時、植民地行政当局と対決姿勢にあったアフリカ人団体の中で、特に中心的な役割を果たしていたのは、ケニア・アフリカ人同盟(KAU=Kenya African Union)で、初代党首ツク、二代目党首ジェームス・ギチュル(James Gichuru)の後、1947年にケニヤッタが党首となった。



マウマウの乱〜ケニア独立
 
 ケニア・アフリカ人同盟(KAU)が発言力を持つようになると、植民地行政当局は逆に要求に対して譲歩を見せなくなる。その間、キクユ、マサイ、ルオなど、様々な民族で政治的な組織が結成され始めた。中にはヨーロッパ人や植民地制度に協力するアフリカ人を殺す、という過激な秘密組織もあった。マウマウ(Mau Mau)は当時の政治的な組織の一つで1952年に主にキクユによって結成され、その目的は白人移住者をケニアから追い出すというものだった。
 最初の攻撃は1953年、白人が経営する農場の牛を全部殺すというもので、これがマウマウの乱の始まりである。その後、植民地行政当局は非常事態宣言を出し、部族民を有刺鉄線と地雷装置のある堀に囲まれた『保護村(protected villages)』に収容して、さらに夜間外出を禁止した。約20,000人のキクユが雇われ、イギリス軍による反乱阻止と警察の『保護村』警備を助ける役割を任せられる。1956年にマウマウ敗北と共に反乱は終了したが、この反乱によって13,500人を越えるアフリカ人と、100人ほどのヨーロッパ人が死亡した。また、この他約20,000人のキクユが拘留キャンプに収容されて、その多くが病気などで収容中に死亡している。
 マウマウの乱が開始してから1ヶ月後に、ケニヤッタはマウマウのリーダーであるという容疑で逮捕された。今でこそ、ケニヤッタはマウマウのリーダーであるどころか、マウマウ指揮者に対しても何らかの影響を及ぼしていたとは考えづらいとされているが、5ヶ月にも及ぶ裁判の後に有罪判決が出て、ナイロビから離れたツルカナ地方の刑務所で7年間も拘束された。1959年に釈放となったが、その直後ロドワー(Lodwar)で自宅監禁となる。
 この反乱により白人移住者がローデシア(Rhodesia:現ジンバブエ)、南アフリカ、オーストラリアに退去するようになった。また白人政治家の間にも、国を白人居住区と黒人居住区に分ける案や民主的に選挙を行いアフリカ人政府に移行する案など、今までとは違う要求が出てくるようにもなった。もちろん後者の案が採択されるべきなのは明らかではあるが、1960年にイギリス政府が打ち出した『1963年12月ケニア独立』の計画が出て、ようやく公認される運びとなる。イギリス政府は新ケニア政府に対して1億米ドルにも及ぶ資金援助を行い、これによりヨーロッパ人の経営する農場を買い取ったり、土地を各民族に返還することが可能になった。
 その間ケニア・アフリカ人同盟は、ナイロビを中心とする中央集権国家を目指す派閥と、キクユの独裁を防ぐため連邦制をとるべきであるという派閥の2つに別れた。前者はケニア・アフリカ民族同盟(KANU:Kenya African National Union)、後者はケニア・アフリカ民主同盟(KADU:Kenya African Democratic Union)となり、白人居住者は必然的にKADUを支持するようになった。
 ケニヤッタは1961年に自宅監禁を解かれ、ケニア・アフリカ民族同盟の党首に任命される。長年に渡る白人統治があったものの、ケニアッタは白人に対しての恨みは心に抱いておらず、「独立後のケニアには未来がある」として、逆に白人移住者を元気付けるような対応を取った。
 白人経営農場のうちいくつかはケニア政府によって買い取られ、それを1区画で15〜20人が生活できるような形で区分けされた。これは世界でも有数の出生率の高さを誇るケニアにとって効果のある政策ではあったが、同時に農場の縮小から農産物の減少による財源カットと、住宅建設による生態環境破壊へとつながることになった。政府は残りの白人経営農場については買取を中止することにしたが、以前のように穀物を自給自足できるような体勢に戻すという見込みについては、達成される可能性は薄いものと見られた。
 1962年にケニア・アフリカ民族同盟とケニア・アフリカ民主同盟は連立政府を結成したが、1963年の選挙後にケニヤッタ率いるケニア・アフリカ民族同盟が権力を握るようになった。1963年12月にケニア独立を達成し、ケニヤッタはケニア最初の大統領に就任する。ケニヤッタは1978年に死亡するまで政権を担い、アフリカ国家の中で一番の繁栄と安定を築き上げたと言われる。
 ケニヤッタ政権の欠点として挙げられるのは、キクユ族中心の政策に偏りすぎたことだ。またケニヤッタの政策にあまりに口うるさく反対した者は、よく『行方不明』になるということもあった。
 1964年にケニア・アフリカ民主同盟の自主解散により、ケニアは実質一党支配の国になる。またケニア・アフリカ民主同盟の解散により連邦主義政策も完全に消滅し、政府も当初の二院制から一院制へと移行した。



モイ大統領政権
 
 1978年のケニヤッタの死後、副大統領だったダニエル・アラップ・モイ(Daniel arap Moi)によって政権が引き継がれる。モイは少数民族のトゥゲン族(Tugen)出身で、キクユの黒幕には看板役の人物として見られていた。しかし、ケニヤッタに比べてカリスマ性に乏しく、また体制批判に対してもあまり容認できなかった。モイ体制の初期数年間は反体制者の逮捕、民族団体の解散、大学の閉鎖などが行われた。
 1987年の選挙に勝利すると、モイは内閣改造で大臣を33人に増やし、それからその年の後半には国会で憲法改正案を反対ゼロで可決させた。この憲法改正には裁判官や公務員の解任権を含めた大統領の権力強化が盛り込まれている。
 ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)は、党の自警団体であるKANU青年隊(KANU Youth Wing)の地位を高めることにより、さらに権力を高めていく。KANU青年隊はデモの解散、反体制勢力への嫌がらせなどをよく行っていた。この期間は多くの反体制者が裁判なしで逮捕、拘留されている。
 しかし、政府はキリスト教会(特に英国国教会)のリーダーによる批判については抑えきることができなかった。彼らは説法を政治批判に変え、政府の縁故者びいきに対しての反対者から多くの支持を集める。しかし、政治を批判する者は大統領や大臣などから中傷され、ひどい場合には治安妨害の罪で逮捕されることもあった。
 1990年代に入り、東ヨーロッパとソビエト連邦の共産主義体制の崩壊により、西側勢力の共産主義国家に対するけん制の意味でのアフリカへの援助というのは必要がなくなった。ケニアに資金援助をしていた国はケニア政府に対し、複数政党制に移行してただちに選挙を行うよう、強烈な圧力をかけるようになる。この動きにケニア政府は最初抵抗を示したものの、90億米ドルもの対外債務を抱えている上、経済停滞が続いていたことから、現実的には受け入れざるを得ない状況ではあった。これを強力に推し進めるため、1992年に西側諸国はケニアに対する経済援助を完全にストップさせる。そのような中、ケニア・アフリカ民族同盟は一党支配の国会現職議員以外で発言力のある者を黙らせることに必死だった。1990年に元外務大臣のロバート・オウコ(Robert Ouko)が殺害されて、その真相は闇に葬られてしまった。この事件後数年の間に目撃者や証拠となるものは、次々と消えていった。
 1992年に複数政党制による初の選挙が行われ、ケニア・アフリカ民族同盟の勝利に終わったが、この選挙のオブザーバーであるIMF、世界銀行などは、この勝利を「モイ大統領が票をお金で買ったもの」とした。大統領選では、野党同士がつまらない争いをおこしてしまうこともあったりして、結局モイが勝利をおさめる結果となる。
 1997年の選挙では、野党勢力の一派と教会の指導者たちが警官にやられている場面をテレビで放映されて、国中を震撼させた。この政治的な動揺を立て直すため、ケニア・アフリカ民族同盟と野党は憲法改正についての話し合いを行う。事業の投資家や野党の意見なども含めた包括的な憲法改正がこの選挙後に行われることになる。大統領選挙では40%もの得票率を得てモイが再選したが、議会はケニア・アフリカ民族同盟が113議席、野党が合わせて109議席とかなり逼迫した状況になった。しかし、ケニア・アフリカ民族同盟は選挙後すぐ、同じキクユ族の民主党(Democratic Party:39議席)とルオ族の国家民主党(National Democratic Party:21議席)の最大野党2党と手を組み、協力体制を確立することになった。
 この選挙期間中、海岸地方ではケニア・アフリカ民族同盟の一員が起こしたと思われる暴力事件が発生する。この事件では家や会社が攻撃されて、何百人ものキクユ、ルオの人々が殺害された。モイ大統領はこの事件を何とかもみ消そうとしたが、損害は予想以上に大きかった。ヨーロッパや北米の旅行会社が相次いでツアーをキャンセルした結果、60,000人にも及ぶ失業者を生み、ケニア経済は深刻に衰弱化してしまった。
 政治以外では、干ばつと1997年3月〜1998年6月の間のエルニーニョによる大雨で、国全体が大きな打撃をうけたことが挙げられる。モンバサとリフト・バレーは他の地域と分断された形となり、コレラやマラリアなどの伝染病も流行した。
 ソマリア、スーダン南部など内戦地域から武器が流入し、特にケニア北部では治安が非常に悪化している。民族間の紛争も自動小銃を使った激しいものになっている。
 1998年に起きたナイロビのアメリカ大使館の爆破事件は、ケニア史上最悪の事件と言われ、200人以上の死者と数百人の負傷者を出した。サウジアラビアのテロリストの犯行によるもので、同じ日にタンザニアのダル・エス・サラームのアメリカ大使館も爆破された。この影響によりケニアの観光業は大きなダメージを受け、2000年は1996年に比べると約半分の落ち込みであった。

※2002年12月にムワイ・キバキが大統領に就任し、1978年から続いたモイ長期政権は幕を閉じた。


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参考文献: