英語が本当に苦手な人の英語学習法

製作: 小川 邦久

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3.のんびり気ままな大学生活~母の死~本格的な英語学習開始のきっかけ


 専攻は工業化学。大学に入学してから数カ月は比較的真面目に学校に行き、きちんと授業を受けていました。また、放課後は友人と麻雀をしたり、パチスロ店に出かけたり、週末はドライブに出かけるなどして、ある意味大学生らしい充実した毎日を送っていました。ただ、受験の時にあれだけ一生懸命勉強した英語は、また勉強の目的を失って忘れ去られた存在になりつつありました。大学でも必修科目として英語の授業はありましたが、テストが非常に簡単で、中には教科書持ち込み可能なのに教科書の文章の単語穴埋めなどという、かなりふざけた試験もあったりしました(もちろん評価は「優」でした)。これでは単位修得のことを考えたとしても、全く英語の勉強をする気にはなれません。この時にはまだ「英語を話せるようになりたい」とか、「海外を旅したい」とかいう発想は皆無で、もちろんそのために英語を勉強するという発想もありませんでした。



 そのうちに麻雀とパチスロが生活の中心になり、学校には出席が直接成績に影響する実験のある日にしか出席しなくなりました。定期試験前には学校にちゃんと行っている友人のノートを大量にコピーして、ほぼ一夜漬けでテストに備えました。


 そんなのんびり気ままな生活が続いていた大学二年の8月に、泊りがけの新潟ドライブ旅行から自宅に帰ると、何だか非常に重い雰囲気がただよっていました。突然のことでびっくりしたのですが、母が健診で「胃がん」と宣告されたのです。母はその月のうちに手術となりましたが、既にがんが肝臓、卵巣、横隔膜など全身に転移しており、手術後に執刀医より「余命一年以内」と宣告されました。


 私の中では祖父母、父母、兄妹との「7人家族」は、ほとんど永遠のものと思っていました。物心がついて妹が生まれてからの約15年間、ずっとその状態で過ごしてきたからです。そんな中での母の余命宣告は、あまりにも大きな衝撃でした。


 母は手術から2カ月ほどで一旦退院しました。私はこの時にもまだ麻雀やパチスロは続けていましたが、常に母の今後のことを想像してしまい、何をやっても本気で楽しむということができなくなっていました。


 母の病気がわかる少し前に、実家の仕事が酪農から貸倉庫業に移行することに決まっていて、何十年もやっていた牛の仕事は近々やめることになっていました。牛の仕事は毎朝早く、土日も祝日も正月も無い、かなりきつい仕事と言えます。母はもうすぐ「自由な時間」がたくさん持てるはずだったのに、なんでこのタイミングでがんに侵されてしまったのだろう、どうして世界中の数ある人の中から、母ががん患者という運命を辿らなければいけなくなってしまったのだろう、というどこにもぶつけ様のない疑問を抱いていました。しかし、一方で「母が死ぬ」という、これから起こるであろう現実をうまく受け止められない自分もいました。当時、母方、父方のどちらの祖父母も健在で家族の葬式の経験が一度もなく、人が死ぬということが実感として湧かなかったということもあります。「もしかしたら、うちの家族だけは特別ということだってあるのかもしれない」という妄想さえもありました。


 しかし、時間は何も言わずに流れて行き、母の病状は容赦なく悪化していきました。そして、大学三年の6月に母は死亡しました。母の闘病生活は正直かなり苦しさが伴うもので、特に最後の何日かは全身が痙攣するなど、生きていることさえも非常に辛そうに思えました。私が生前に母と最後に面会したのは死の二日前で、母はもう自分の意思ではほとんど動かすことのできない自分自身の体を、何とか動かそうとしても動かせず、悔しさから目に涙を浮かべていたことは鮮烈な記憶として今も残っています。逆に母の死んだ時の顔は、辛い闘いが終わって安心したようにさえ見えました。


 私は高校生、大学生と成長しても、母に甘ていたところが大きくありました。受験勉強の間に模擬試験でいい結果が出た時なども、母に報告して喜んでもらうのが、私としても何よりの喜びでした。大学に合格したときは誰よりもまず母に伝えたいと思いました。大学に入ってから、たわいのない愚痴を延々と聞いてもらうこともありました。ただ母の死後、「これからは一人で何とかしなければいけない」ということを、日に日に強く感じるようになりました。これからという時にがんという病気に侵され、そしてそのまま死んでしまった母を思い出す度に悲しみがこみ上げつつも、私自身は「今自分がやりたいことをきちんと実行しなければ、後で絶対後悔する」という思いを強く持つようにもなりました。当時、具体的に将来何をしたいというのはありませんでしたが、「とにかく目の前のできることからやっていこう。その先に何があるかはわからないけど、きっと何かが待っているはずだ」という考えに至りました。


 母が死んだ後の夏休みに、一人車で東北自動車道を北に走り、青森県の大間からフェリーで北海道に渡りました。いわゆる自分探しの旅です。毛布一枚を後部座席に置いて、夜になったらパーキングで毛布をかぶって睡眠という旅でした。北海道各地を点々としましたが、自転車やバイクで旅をしている人達と違い、キャンプで宿泊したりはしないので、車での旅行は人との出逢いがありません。一人でもくもくとドライブを続け、10日間で北海道を一周し終えてから、東北自動車道を南下して自宅に帰ってきました。ただ、自宅に戻った後も、達成感があるような無いような、また旅行中に知らない人との交流がなかったことの空しさも何となくあるような無いような、自分でもよくわからない気分でした。


 それから小説にも興味を持つようになりました。旅行のような外的な経験に加えて、「小説を読むことで、内面的にも何かを得られるかもしれない」という思いがあったからです。私はそれまでに一度も小説を読んだことがありませんでした。小学校の夏休みの読書感想文の宿題でさえ、本を全く読まずに感想文を提出しないまま終えたか、あらすじだけ書き写して「感想文」として提出したかのどちらかでした。それ位、まとまった文章を読むのが面倒で嫌いでした。


 まずはじめが太宰治でした。少し考え込むようになりました。それから哲学の入門書を何冊か読みました。それからまた、色々な小説を読んでみましたが、ある日「以前ベストセラーになった、村上春樹の『ノルウェイの森』を読んでみよう」と思い立ちました。特別な理由やきっかけはなく、単なる思い付きです。


 そして「ノルウェイの森」の世界にすっかりハマってしまい、それから「村上春樹の小説は面白い」ということで、「ダンス・ダンス・ダンス」や「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」も読んでこれまた見事にハマり、最終的には村上春樹氏の著書を全て読むまでに至りました。


 村上春樹氏の著書については、小説以外にも旅行記や海外滞在記のエッセイが好きでした。中でもイタリア滞在記「遠い太鼓」とアメリカ滞在記「やがて哀しき外国語」を読んで「海外の生活も面白そう」と思うようになり、またエッセイを読みながら村上春樹氏が現地の言葉を自由に操って楽しく生活している姿も想像できて、「外国語が喋れるって、やっぱり格好いいよな」と思うようになりました。


「本やテレビなどで紹介されている遠くの世界の出来事が、本当に現実に起きている事なのかどうか、今の自分には確かめる手段さえもない。でも、その国の言葉ができれば、それを実際に見たり聞いたりすることができるし、自分の身をしばらくその中に置くこともできる。それによって自分の内面的な世界観ももっと広げられそうな気がする」


 そう強く思ったのが、大学四年の春のことでした。